高野悦子『二十歳の原点』はとてもカッコイイ日記だ

 

 

二十歳の原点 (新潮文庫)

二十歳の原点 (新潮文庫)

 

Amazonより 

 

 

こんにちは、缶ヶ江メグルです。あなたは日記書きますか?僕は書きます。日記屋です。日記屋が物書きになるには、とあれこれ考えてた時に、ふとAmazonでちきりんさんの『「自分メディア」はこう作る! 大人気ブログの超戦略的運営記』という本と出会いました。

  

「自分メディア」はこう作る! 大人気ブログの超戦略的運営記
 

 Amazonより

 

その本では、ちきりんさんが(ブログではなく、人に見せる予定のない、ただノートに書く) 日記を書くようになったきっかけが初めのほうで書かれています。きっかけは、『二十歳の原点 (新潮文庫)』という本だと。

 

目次はさんどきます。

 

 

この本を小学校高学年くらいの時に読んで、日記ってこんなに人の心を打つのか、自分も書こう、みたいに思われて書き始めたとあります。『二十歳の原点』を書いた高野悦子という人は、20歳で鉄道自殺しています。

 

なんで自殺したんだろう、一体本にはどんなことが書いてあるのか。気になったので僕も読みました。

 

読んでみて、自分と考え方似てるな、カッコイイ文章書くな、と思った。今から一部紹介していきますが、共感されたら一度ご自分で読んでみて下さい。日記は1969年の1/2~6/22までのが収録されており、大学紛争が盛んだった時みたいです。民青とか反民とか、機動隊学内突入とか、当時のことは読んでも全然わからないですが、それでも読めます。

 

自分自身とか高野悦子さんのような考え方をしている人は、あまりその考えを人としゃべって共有したりしないと思う。こっそり文字に書く。だから自分は独りだとか感じてしまう。独りじゃないのに。僕自身も、本を読んでそう思いました。自分と同じような考え方する人、いるんだ! とちょっと元気出ました。

 

テーマがまずカッコイイ

 

 

日記の一番初めに、1ページ分に2行しか書いてない。高野悦子さんの人生のテーマ的なのが書かれている。

 

独りであること、未熟であること、

これが私の二十歳の原点である。

 

人は根本的には一生を通じて、独りで、かつ未熟な存在だ、と言いたいんかな。日記とは思えん。カッコイイ。

 

初めの3ページで共感ポイントありすぎて線たくさん引いた

 

 

出だしからとてもいい。4つも紹介したい文章がある。

 

特に父母には年代のズレを感じる。父母は若い私達を認めようとはしない。「若いからそうだが、やがて年をとれば年配者の言うことが正しいことがわかる」とこんな調子である。(6ページ)

 

そうだな。私たちの言う通りに、大学を卒業して大きな会社に就職できれば幸せなんだ、そうしなさい、みたいなね。僕ブログでこればっか書いてる気がする。はい次。

 

……世間を知らぬバカなのかもしれぬ。しかし、「世間を知る」という言葉の中には、、その体制に順応してヌクヌクと生きていくという意味が、一面だがある。(6ページ)

 

うむ。僕も職場で、取引先の歯医者さんの対応の高慢さにカチンと来て、先輩に愚痴ると、「歯医者の先生なんてそんなもんだよ」ってなだめられる。いちいち気にしてたら身が持たないよって。いやいいのかよそれで! と思ってしまう。世間とはそんなもんだ、と割り切ってしまっていいのか……次行く。

 

私は慣らされる人間ではなく、創造する人間になりたい。「高野悦子」自身になりたい。テレビ、新聞、週刊誌、雑誌、あらゆるものが慣らされる人間にしようとする。私は、自分の意志で決定したことをやり、あらゆるものにぶつかって必死にもがき、歌をうたい、下手でも絵をかき、泣いたり笑ったり、悲しんだりすることの出来る人間になりたい。(6、7ページ)

 

うん、わかる。僕が考えてることを文章にしてくれてる! という感じ。新聞とかのマスメディアは、あたかも読み手、受け手に「こう考えなさい」と圧力をかけてきているように見える。嫌だ! 自分で決めるから。介入してこないでくれ。

 

そういうことを著者は言いたいのかな。「慣らされる」とは、こうしとけば間違いないから、というアドバイスに従うこと、逆らわないこと。「創造する」とは、いったんそうしたアドバイスは置いといて、自分がやってみたいと感じることをやるってこと、だと思う。次だ。

 

人間は誰でも、独りで生きなければならないと同時に、みんなと生きなければならない。私は「みんなと生きる」ということが良くわからない。(7ページ)

 

著者がいつそう感じるのか書いてないけど、多分、家族と一緒にいる時とか、学校で授業受けたり、部活やサークル活動している時かなーと想像する。うん、よくわからないよね。でも間違ってもそれは、世間に順応するとか、慣らされるとかいうことじゃない。

 

順応するフリ、慣らされるフリは必要かもしれない、僕は最近そう思う。

 

ふう。まだ序盤なのに。でも、これが高野悦子さんのだ、多分。

似たような内容で、グッときた文章をあと3コご紹介しよう。

 

仲間・友

 

 

しかし彼らには仲間が、同志がいる。……友がいるということは羨ましい。でも私は自己を曲げてまで友を求めようとは思わない。……今の私は行きずりに話を交わして過ぎて行く人が唯一の友である。(71、72ページ)

 

カッコイイ。自己を曲げてまで求めようとは、僕も思わない。街を歩いていて、中学生か高校生の男の子の3~5人くらいのグループを見ると、この内の3人は残りの2人について行ってるだけじゃないかと考えてしまう。自己を曲げてグループに属する方が安心、みたいな。僕はそういうのは落ち着かなくてしょうがなくなるので苦手だ。

 

誰のために生きるのか

 

 

私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。(111ページ)

 

短い文だけど、力強い。同感だ。よく就職に関する講義で聞くのは、利他こそが基本、のような考え方。でもそれは前提に、自分の利益につながる条件つきで初めて成り立つと思う。自分のこと放ったらかしで人のために尽くして、じゃあ誰が自分のために尽くしてくれるんだ。自分しかいないじゃん。

 

大学に進学したのは? なんとなく。

 

 

大学に入りたての頃よくきかれたものだ。「あなたは何故大学にきたの」と。私は答えた。「なんとなく」と。勉強もできない方ではなかったし、家庭の状況もよかったから、日本史専攻に籍をおいているけれど、英語でも体育でも何でもよかった。就職するのはいやだし、大学にでも行こうかって気になり、なんとなくきた。(159ページ)

 

これ、世の大学生の大半がそうなんじゃないのか。僕もそうだったし。就職を正当に先延ばしにし、自由を謳歌できる憧れのキャンパスライフ! 大学進学は「夢」行きのチケットか。

 

高校生の時にもっと真剣に進路のことを考えたかったと今になって思う。んーでも考えられないだろうなあ。なんとなく来ちゃうんだよ本当に。それが怖い。

 

なんか批判ばっかだけど、溜まっているのだからしょうがない。でも、大学まで行かせてもらえたのは良かったと思う。親に感謝。幸せもんだよ自分は。自分の子どもができた時、大学行きたいと言われたら行かせてやる。

 

ふうー。よし、最後に詩的でカッコイイ気に入った所を紹介しよう。

 

本当にそれは私の血なのだろうか(おわりに)

 

 

私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

 私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと血が流れ出す。本当にそれは私の血なのだろうか。(66ページ)

 

ニヒリズムというんだろうか。こんな文章書けていること自体が、衝動、心の高まり、充実感だと思うけどな。惜しいなあ、自殺してしまって。

 

しかし、僕も生命の充実感とか、果たして感じたことがあるんだろうかと疑問を抱く。少なくとも今この文章を書いている時は夢中だ。こんなこと書いていいのかなとか思う間もなく。自分が夢中になれることをわかってるのは、ラッキーだ。止めずに書き続けたい。

 

 

いかがでしたか。今回はここで終わりです。同じような考えを持っている方に届けという思いを込めて書きました。

 

本が気になった方、こちらからどうぞ!

 

最後まで読んで頂きありがとうございます!ではまた!